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家事ジャーナリスト山田亮の講演や執筆などの仕事記録です。 家事で楽して生活を楽しむ!家事がオモシロイと一生楽しい!

分業社会の行き着く先

2009/03/09
僕の家事論 0
今週末の研究会報告に向けて、いろいろ資料を物色していたら、興味深い記述を見つけました。それは、「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスの著作『国富論(諸国民の富)』の中です。

(原著P267)
分業が進展するにつれて、(略)およそ創造物としての人間が成り下がれる限りのバカになり、無知にもなる。彼は精神が遅鈍になるから、なにか筋の通った会話に興をわかせたり、それに加わったりすることができなくなるばかりか、どのような寛大で高尚な、または優しい感情をもつことができなくなり、従ってまた、私生活の義務についてさえ、その多くのものについてどのような正当な判断も下せなくなる。

「分業が行き過ぎると、頭を使わなくなるからこうなる」と予想してますが、今日の状況を見ると、あながち間違いでもなさそうです。

会話のキャッチボールが苦手な男性、多いですよね。話が業務連絡か演説になってる人。キャッチボールどころか、声を発すること自体が苦手な男性も多いですね。

例えば、ゴミをポイ捨てして、「ゴミを拾う人に仕事を与えてやってる」と言う人がいますが、これなんて分業の行きすぎをそのまま説明していますよね。社会との断絶を垣間見ます。

「私生活の義務」というのも、興味深いです。例えば「自事」。熟年離婚した妻の理由の第1位は「夫が家事をしない」と挙げていた番組がありました。「自分の事くらい自分でやって!」と言っていた女性もいました。自分の脱いだモノをチャンと決まった場所に脱ぐなんてのは、おそらく「子どものシツケ」程度のことでしょうけど、それすらできなくなるのも、1776年に出版された書にアダム・スミスが指摘しています。

この後、
「彼は戦時に自分の国を防衛することも、同じようにできないのである」
と書いてます。アダム・スミスは、この項で「だから教育が必要やねん」とし、「特に公教育が大切やねん」と主張しています。どういう教育をすれば、分業制の弊害から人間を救えるか?については、まだ僕の読み込みが足りず、その箇所を見つけられていません。

が、僕が想像するに、アダム・スミスは『国富論』の前の著書、『道徳情操論』で示した「Sympathy(共感)」にそれを求めていたんじゃないか?と思います。「共感」が前提条件として存在したうえで「分業」もあったのではないか?と考えたんだと思います。

共感を得るためには、(ある程度の)「共同」が必要で、「分業」とは相反します。この「分業と共感のバランス」が欠落した時、おそらく社会は停滞したり退廃したりするのでしょう。今の日本の病理現象を見ていると、アダム・スミスの指摘した分業の弊害で満ちているような気がします。

僕は、この状況の打開策に、家事共同を提案します。家族やご近所総出の農作業やパパママストアが姿を消しつつある現在、敢えて共同作業を設定しないといけない時、家事は毎日、家族のもとにあります。いつもあるデューティーです。一緒に共同することで、時間と経験の共有や、「美味しい!」「キレイになったぁ!」という感情の共有(=共感)も得られます。こう考えると、「ウチには専業主婦(主夫)が居る(だから私は家事をしなくていい)」というのは、別の論点かと思います。
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