人それぞれの解釈
「人」字型人間関係から「I」字自立。そして「M」字型人間関係という、例の話について、先日の研究会で、「『M』字型がマジョリティーになった時、『I』字を貫く自由は保障されるのか?」という質問が出されました。
その時は、「多様性を認めないという意見を、多文化共生社会は許すことができるか?」というオーストラリアのマルチカルチャリズム(Multiculturalism)のジレンマの話をしました。でも、なんとなく、釈然としない自分がいて、今日もフト考えてみました。そして、「そうか!」と気が付きました。
僕は「M」字型を最終形にしてますが、実際の「M」字型形成は、瞬間瞬間のものであって、なんら恒常的関係を保障するものではないというモノだということです。ところが、たいていの人は、「I」字自立を経て「M」字型人間関係に落ち着くと考えるようです。それはそれでもいいのですが、例えば夫婦での「M」字型を固定化してしまうと、職場も夫婦で出勤になってしまいます。
僕が大切にしたいモノに、
「今、ここで、一緒にいる、一緒に過ごしている」
ことへの意識化があります。
当たり前のように家族がそろって、当たり前のように勤め先があり、当たり前のように暮らしている毎日があるというのは、本当に貴重な貴重なことだと思うのです。本当は、なんら当たり前のことではないのです。「なんとなく繋がっている感じ」「親友、た〜くさんいるよ」という感覚には、「今、ここで」というライブ感の希薄さを感じます。
諸行無常のこの世で、ライブの大切さを訴える。
「一期一会」
なんてスンバラシイ言葉なんでしょ。
…というわけで、「I」字を貫く自由の保障云々ではなく、「I」字自立がマジョリティーであるということです。「M」字型人間関係を築けるのは、一緒に会話している時、一緒に歩いている時、一緒にご飯を食べている時など、瞬間瞬間の関係を、僕はイメージしています。
そんな宙ぶらりんな、危なっかしい関係で、人はシッカリと関係を築いていけるのか?そうです。難しいのです。だから一緒に会話したり、一緒に食事したり、一緒に笑ったりしながら、経験や情報や感情を共有して、それらの接点を増やすことで関係を確かなモノにしようとするのだと思います。その延長で、社会との信頼関係も生まれてくるんじゃないかと思います。
その時は、「多様性を認めないという意見を、多文化共生社会は許すことができるか?」というオーストラリアのマルチカルチャリズム(Multiculturalism)のジレンマの話をしました。でも、なんとなく、釈然としない自分がいて、今日もフト考えてみました。そして、「そうか!」と気が付きました。
僕は「M」字型を最終形にしてますが、実際の「M」字型形成は、瞬間瞬間のものであって、なんら恒常的関係を保障するものではないというモノだということです。ところが、たいていの人は、「I」字自立を経て「M」字型人間関係に落ち着くと考えるようです。それはそれでもいいのですが、例えば夫婦での「M」字型を固定化してしまうと、職場も夫婦で出勤になってしまいます。
僕が大切にしたいモノに、
「今、ここで、一緒にいる、一緒に過ごしている」
ことへの意識化があります。
当たり前のように家族がそろって、当たり前のように勤め先があり、当たり前のように暮らしている毎日があるというのは、本当に貴重な貴重なことだと思うのです。本当は、なんら当たり前のことではないのです。「なんとなく繋がっている感じ」「親友、た〜くさんいるよ」という感覚には、「今、ここで」というライブ感の希薄さを感じます。
諸行無常のこの世で、ライブの大切さを訴える。
「一期一会」
なんてスンバラシイ言葉なんでしょ。
…というわけで、「I」字を貫く自由の保障云々ではなく、「I」字自立がマジョリティーであるということです。「M」字型人間関係を築けるのは、一緒に会話している時、一緒に歩いている時、一緒にご飯を食べている時など、瞬間瞬間の関係を、僕はイメージしています。
そんな宙ぶらりんな、危なっかしい関係で、人はシッカリと関係を築いていけるのか?そうです。難しいのです。だから一緒に会話したり、一緒に食事したり、一緒に笑ったりしながら、経験や情報や感情を共有して、それらの接点を増やすことで関係を確かなモノにしようとするのだと思います。その延長で、社会との信頼関係も生まれてくるんじゃないかと思います。
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