東京新聞連載 99回 規格の統一

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タオルのサイズくらいではバトルになりませんが、とはいえ、一つサイズ違いが混じるだけで、前回のコラムではないですが「メンドウ」が倍増です。家事で楽したいのなら、規格の統一は間違いなく有効です。逆にいうと、規格が統一されていないのは、家事手間やストレスを確実に増やします。
一人暮らしの家事だと、規格を統一させるのは簡単。ところが同居者がいると、統一は難しい。個人の好みもある。「これでないとダメ」「これ以外ダメ」という押し付けも、やり過ぎると暮らしが窮屈に。
家事で楽する目的は、心地よく楽しく暮らすためのはず。窮屈さは楽しさとは反対方向。このバランスはその時々の状況で折り合いを付けるしかないです。折り合いのためにはコミュニケーション。結局、家事が上手くいくかどうかは、ここに関わってくると思います。一方的ではなく、それぞれが納得できる着地点を見付けるコミュニケーション。
話は一気に広がりますが、全員参加の家事は民主主義の学校と言えるかもしれません。独裁体制の家庭も多いと思います。民主主義はその合意形成プロセスがメンドウ。独裁の方がスッキリ短時間で解決できるし、わかりやすい。でも、上手く機能した時の安定度と主権者(家族)の総満足度の高さは、独裁の比ではありません。そして一番やっかいなのが、民主主義のフリをした独裁体制であるのは、家事でも政治でも同じです。
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